幕末維新の群像

幕末維新の群像  徳川慶喜は天保8(1837)年、水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の七男として誕生し、弘化4(1847)年に御三卿の一つである一橋家の養子となりました。13代将軍家定の後継をめぐり慶喜を推す一橋派と徳川家茂を押す南紀派が対立、安政5(1858)年、大老井伊直弼(いいなおすけ)の裁定で将軍後継は家茂となり、慶喜は一時謹慎の処分を受けました。
 万延元年(1860)の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された後に赦され、文久2(1862)年に将軍後見職に就任、京都守護職の設置など幕政改革を行ないました。元治元年(1864)の禁門の変では、慶喜自ら御所守備軍を指揮し、馬にも乗らず長州軍と切り結ぶ武闘派でもありました。
 慶応2年(1866)の第二次幕長戦の最中に将軍家茂が大坂城で死去。老中板倉勝静(かつきよ)らの推挙により、同年12月、第15代将軍に就き、果断に幕政改革を進めますが、慶応3(1867)年10月、諸藩の代表を招集した二条城・二の丸御殿の大広間において、政権を朝廷に返還する大政奉還を表明しました。同年12月に王政復古のクーデターが起こり、慶応4(1868)年の鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が惨敗すると、わずかな供連れで江戸に戻り謹慎します。
 大政奉還後の慶応4年(1868年)に水戸から駿府に移り、およそ30年間を静岡で過ごしました。慶喜が静岡で過ごした時代は、静岡市の誕生や、東海道線の開通など近代化が進んだ時代であり、慶喜は絵画や写真撮影、自転車や鉄道の利用など、変わりゆく時代を肌で感じ、謳歌した時代でした。
 その後、貴族院議員にも就きますが、大正2(1913)年、歴代将軍では最長命となる77歳で死去。墓所は東京都台東区の谷中霊園。