幕末維新の群像

幕末維新の群像  岩倉具視は文政8(1825)年、公卿堀河康親の次男として京都で誕生。天保9(1838)年に、岩倉具慶(ともよし)の養子となります。
 下級公家であった岩倉家ですが、日米修好通商条約締結の勅許を得ようと上洛した幕府老中の堀田正睦(まさよし)に対して、岩倉らが猛反対したため、孝明天皇の勅許が受けられず、幕府独断で条約締結が行われました。
 万延元年(1860)、高まる列強の圧力に対して国内の一致を図るため、天皇へ意見書を提出し、皇女和宮(かずのみや)の将軍家への降嫁を推進します。しかしそれにより尊皇攘夷派から佐幕派の巨頭と見なされて失脚し、過激な攘夷派からは命を狙われるまでに至ったため、文久2(1862)年から政界復帰する慶応3(1867)年までの間、京都洛北の岩倉村に幽棲しました。
 以後は、倒幕路線へと舵をきり、慶応3(1867)年の小御所会議では、土佐の山内容堂(ようどう)の反対を岩倉が制したことで反対派は声を潜め、徳川慶喜の辞官納地が決まります。
 明治新政府で岩倉は副総裁、外務卿などを歴任。明治4(1871)年には特命全権大使として使節団を伴い欧米を視察、欽定憲法制定の方針を確定しました。明治16(1883)年病没。享年59歳。墓所は東京都品川区の海晏寺(非公開)。京都市左京区岩倉上蔵町に岩倉具視幽棲旧宅があります。