幕末維新の舞台

萩市

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 萩は吉田松陰(しょういん)をはじめ高杉晋作(たかすぎしんさく)、伊藤博文(ひろぶみ)など多くの逸材を輩出した明治維新胎動の地として、維新の志士ゆかりの地も多く、城下町などの町並みは今も往時の面影を色濃く残しています。平成27年に、「明治日本の産業革命遺産」を構成する最初期の資産として、松下村塾や萩城下町などが世界遺産に登録されています。

萩市からのメッセージ

 平成29年春、旧萩藩校明倫館(めいりんかん)の敷地にある旧明倫小学校の木造校舎(昭和10年建築)が「萩・明倫学舎」としてオープンします。藩校明倫館の歴史や教育のほか、幕末から明治にかけての科学技術、世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産である萩の産業遺産群など萩藩の明治維新への挑戦の物語を紹介します。

幕末維新の舞台

1. 松下村塾(松陰神社)[旧松本村地区]

 幕末期に吉田松陰が主宰した私塾。塾名は、松陰の叔父である玉木文之進(たまきぶんのしん)が自宅で私塾を開いたのが始まりで、安政4年(1857)、28歳の松陰がこれを継ぎ、主宰することになりました。身分や階級にとらわれず塾生として受け入れ、久坂玄瑞(くさかげんずい)、高杉晋作、伊藤博文など明治維新の原動力となり、明治新政府に活躍した多くの逸材を育てました。
山口県萩市椿東1537(松陰神社敷地内)

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2. 吉田松陰幽囚ノ旧宅(松陰神社)[旧松本村地区]

 吉田松陰は、安政元年(1854)、伊豆下田で海外渡航に失敗して江戸伝馬町の牢に捕えられ、萩の野山獄に送られました。翌年に釈放されましたが、父杉百合之助預けとなり、実家である杉家で謹慎生活を送り、読書と著述に専念しました。松陰は家族からの薦めもあり幽囚(ゆうしゅう)室で孟子(もうし)などを講じ、次第に多くの若者が参加するようになり、やがて松陰は松下村塾(しょうかそんじゅく)を主宰(しゅさい)するようになりました。
山口県萩市椿東1537(松陰神社敷地内)

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3. 松陰神社[旧松本村地区]

 明治23年(1890)に吉田松陰を祀(まつ)って建てられた神社。学問の神として信仰が厚く、境内に松下村塾と、隣接して吉田松陰幽囚ノ旧宅があります。このほか境内には、吉田松陰の生涯を20シーン70余体の蝋人形と音声ガイドで紹介する「吉田松陰歴史館」や松陰先生の遺墨や遺品類などが展示されている「松陰神社宝物殿 至誠館」、石碑「明治維新胎動之地」、石碑「薩長土連合密議之處」などがあります。
山口県萩市椿東1537(松陰神社敷地内)

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4. 吉田松陰誕生地[旧松本村地区]

 天保元年(1830)に吉田松陰が誕生した地。松陰は吉田家を継いだ後も両親とともにこの地に住んでいましたが、嘉永元(1848)年、一家は松本村清水口に移った後、現在の松陰神社境内に生活を移しました。現在、誕生地に現存の建物はありませんが、大正時代に設置した間取りを示す敷石で当時の家の規模等を知ることができます。誕生地そばには、吉田松陰、長州藩士金子重輔(かねこしげのすけ)の銅像が建っています。
山口県萩市大字椿東1433-1

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5. 吉田松陰の墓ならびに墓所[旧松本村地区]

 松陰没後、生家の杉家では百ヵ忌を営み、家族や親戚、高杉晋作、久坂玄瑞をはじめ在萩の門人が出席し、故人の霊を弔い遺髪を埋葬しました。墓碑表に「松陰二十一回猛士墓」、裏に「姓吉田氏、称寅次郎、安政六年己未十月二十七日於江戸歿、享年三十歳」と刻まれています。この墓所には、杉家、吉田家、玉木家、久坂家など一族の墓のほか、門人の高杉晋作などの墓が立ち並んでいます。
山口県萩市大字椿東

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6. 玉木文之進旧宅[旧松本村地区]

 吉田松陰の叔父である玉木文之進は、文化7年(1810)萩藩士杉七兵衛の3男として生まれ、11歳のときに玉木十右衛門の後を継ぎました。天保13年(1842)松下村塾を開き多くの子弟を教育し、松陰が10歳で藩校明倫館の助教授となったときの後見人でもあります。明治9年(1876)の秋、萩の乱を阻止できず、門弟が多く参加したことから「自己の教育責任を、一死以ってこれを償ふ」と言い、自刃しました。
山口県萩市椿東1584-1

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7. 伊藤博文旧宅[旧松本村地区]

 安政元(1854)年に伊藤博文の父・林十蔵が伊藤家の養子となり一家をあげて居住、博文が明治元年に兵庫県知事に赴任するまでの本拠となった家です。博文は松下村塾では、「なかなか周旋家になりそうな」と吉田松陰の評価を得ています。長州ファイブの1人として英国に密航留学、また岩倉使節団の一員として欧米各国を歴訪。参議、工部卿などを経て明治18年(1885)初代内閣総理大臣となりました。
山口県萩市椿東1515

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8. 東光寺[旧松本村地区]

 大照院とならぶ毛利家の菩提寺です。総門、三門、鐘楼、大雄宝殿はいずれも国の重要文化財に指定されています。毛利家墓所には吉就(よしなり)から11代までの奇数代の藩主とその夫人の墓があり、墓前には藩士が寄進した500余基の石灯籠が立ち並んでいます。また、墓所入口手前に禁門の変の責任をとり自刃した三家老、藩内主導権争いで処刑された殉難烈士(じゅんなんれっし)らの墓があります。
山口県萩市椿東1647

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9. 山田顕義誕生地[旧松本村地区]

 山田顕義(やまだあきよし)は、安政5年15歳の時に松下村塾に入門。幕末維新で軍功をあげ、維新後は、第一次伊藤博文内閣で司法大臣として法典編纂(ほうてんへんさん)に貢献しました。また、教育を重視し、明治22年日本大学の前身である日本法律学校を創設し、次いで翌年國學院(こくがくいん)を設立しました。この地は、日本大学が建学90周年を記念し、昭和54年に整備したもので、高さ1.1mの台座に建つ高さ2.4mの「山田顕義先生之像」が印象的です。
山口県萩市椿東(中ノ倉の2)

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10. 萩城城下町

 萩城城下町は国の史跡で、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)が生まれ育った地区です。史跡の一部は、萩城下町(旧町人地)として世界遺産「明治日本の産業革命遺産」に登録されています。江戸屋横町、菊屋横町と呼ばれる小路にはさまれるエリア内には藩の御用達を勤めた菊屋家の住宅や高杉晋作、伊藤博文が幼少期、勉学に励んだ寺として知られる円政寺などがあります。
山口県萩市呉服町1丁目付近

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11. 高杉晋作誕生地[萩城城下町]

 天保10年(1839)に萩藩大組士、高杉小忠太(こうちゅうた)の長男として生まれ、藩校明倫館に通う一方で松下村塾に通いました。文久2年(1862)、外国に支配される清国(上海)を視察し危機感を抱いた晋作は、翌文久3年に“奇兵隊”を結成し討幕戦を勝利へと導きましたが、慶応3年(1867) 、維新を目前に結核のため27歳と8カ月という若さでこの世を去りました。産湯(うぶゆ)に使ったと伝えられる井戸などが残っています。
山口県萩市南古萩町23

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12. 高杉晋作立志像[萩城城下町]

 高杉晋作誕生地の近くにある「晋作広場」に、平成22年10月に建立されました。銅像は、晋作が明倫館や松下村塾に通っていた20歳頃の若々しく凛々しい顔をイメージしており、両刀を差した羽織(はおり)、袴(はかま)の立ち姿です。銅像の高さは1.8mで、台座を含めて3m。晋作誕生地と萩城の方角を向いて建てられています。また広場には晋作が好きだった梅の木も植樹されています。
山口県萩市南古萩町 晋作広場(高杉晋作誕生地そば)

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13. 木戸孝允旧宅[萩城城下町]

 生まれてから江戸に出るまでの約20年間を過ごした旧宅には、幼少時代の手習いの書を表装した掛け軸などが展示されています。藩校明倫館に通い吉田松陰の兵学門下となり、文久2年(1862)藩の要職に就いて国事に奔走しました。慶応2年(1866)、薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通らと“薩長同盟”を結び明治維新に尽力。維新後は五箇条(ごかじょう)の御誓文(ごせいもん)の起草、版籍奉還(はんせきほうかん)、廃藩置県(はいはんちけん)などの推進に功績を残しました。
山口県萩市呉服町2-37

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14. 青木周弼旧宅[萩城城下町]

 幕末当時の日本屈指の蘭学者で、来客用と家人用の座敷に分けられた主屋が、全国から門下生が集まった青木家の事情を物語っています。嘉永元(1848)年、13代藩主・毛利敬親(もうりたかちか)の信任を得て侍医となりました。早くから種痘法(しゅとうほう)に注目し、弟・研蔵を長崎に遣わし研究させ、藩内でこれを施し大いに功を奏しました。10歳の高杉晋作が疱瘡(ほうそう)にかかった際、診療した医者としても知られています。
山口県萩市南古萩町

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15. 円政寺[萩城城下町]

 円政寺(えんせいじ)は、高杉晋作や伊藤博文が勉学に励んだ寺として知られています。寺には、幼い晋作が肝だめしをしたという大きく迫力のある「天狗の面」や、遊んだ木馬(神馬)が残っています。また、境内には十二支の彫刻が施された珍しい形式の金毘羅社(こんぴらしゃ)や、県下最大の石灯篭(いしどうろう)があります。
山口県萩市南古萩町6

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16. 久坂玄瑞進撃像

 松下村塾の双璧と称され、尊皇攘夷派を牽引して国事に奔走し、元治元年(1864)禁門の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)で25歳の生涯を閉じました。吉田松陰から「防長年少第一流の才気ある男」と絶賛され、松陰の妹・文(大河ドラマ『花燃ゆ』のヒロイン)と結婚しました。銅像の高さは1.8mで、台座を含めて3m。尊皇攘夷の先頭に立つ若き玄瑞の立像となっており、右手を上げて力強く東を指す、勇ましく凛々しい姿です。
山口県萩市江向 中央公園(萩城城下町側)

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17. 旧萩藩校明倫館

 享保3年(1718)5代藩主吉元(よしもと)が家臣の子弟教育のために建てた藩校で、約130年後の嘉永2年(1849)に現在地に移転、規模を拡大しました。吉田松陰や楫取素彦(かとりもとひこ)(小田村伊之助)もここで教鞭をふるいました。敷地内には、剣槍術場である有備館、水中騎馬などの練習が行われた水練池、南門、観徳門などが残っています。
山口県萩市江向602

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18. 渡辺蒿蔵旧宅

 安政4年(1857)15歳で松下村塾に入り、吉田松陰に学んだ後、尊攘運動に加わり奇兵隊に参加、禁門の変で長州藩の敗退後、西洋兵学の修得に励みました。慶応3年(1867)長崎に派遣された後、藩命により米英に留学し造船技術を修得しました。帰国後、工部省に入り、官営長崎造船局(現三菱重工長崎造船所)の初代局長に就任し、日本の造船事業の近代化に貢献しました。帰郷後、松下村塾の保存事業に尽力しました。
山口県萩市江向5番地

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19. 萩城跡指月公園

 慶長9年(1604)に毛利輝元(もうりてるもと)が築城した萩城は、明治7年(1874)に天守閣などの建物は全て解体され、現在は石垣と堀の一部が昔の姿をとどめています。城跡の構造をよく残していることが特徴で、明治日本の産業革命遺産の構成資産「萩城下町(城跡)」として世界遺産に登録されています。園内には13代藩主毛利敬親(もうりたかちか)が安政年間に家臣とともに茶事に託して討幕の密議を凝らした茶室「花江茶亭(はなのえちゃてい)」が移築されています。
山口県萩市堀内1-1

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20. 萩反射炉

 西洋式の鉄製大砲鋳造(ちゅうぞう)を目指した萩藩が、安政3年(1856)に建設した反射炉(はんしゃろ)の遺跡です。反射炉は鉄製大砲の鋳造に必要な金属溶解炉(ようかいろ)で、長州藩の海防強化の一環として導入が試みられました。萩反射炉は、反射炉の操業に成功していた佐賀藩に派遣した大工棟梁(とうりょう)が持ち帰ったスケッチをもとに試作的に築造されたと考えられています。2015年7月に世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」の構成要素の一つです。
山口県萩市椿東4897-7

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21. 恵美須ヶ鼻造船所跡

 萩藩が、安政3年(1856)に設けた造船所の遺跡で、幕末に「丙辰丸(へいしんまる)」「庚申丸(こうしんまる)」という2隻の西洋式帆船を建造しました。丙辰丸はロシアの技術、庚申丸はオランダの技術が用いられており、このように技術の異なる2隻が同じ造船所で作った例は他にないこと、また幕末に建設されたもので唯一遺構が確認できる造船所であることが評価されています。
山口県萩市椿東5159-14

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22. 野山獄跡・岩倉獄跡

 安政元年(1854)、海外密航に失敗した吉田松陰は野山獄に投じられ、岩倉獄には従者だった金子重之助が投じられました。松陰は、獄内で仲間の囚人たちに孟子の講義を行い、獄吏でさえも廊下で松陰の講義に耳を傾けたといわれるように前例のない教育活動を行いました。野山獄には文久・元治年間(1861~64)、藩内の論争に際して高杉晋作や楫取素彦ら多くの志士も入牢しました。現在、当時の敷地の一部に記念碑などが建てられています。
山口県萩市今古萩町35-6

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23. 菊ヶ浜土塁(女台場)

 文久3年(1863)攘夷決行の日、萩藩は関門海峡を通過する外国船に砲撃しましたが大きな被害を受け、萩の住民の間にも「自らの手で城下を守ろう」との機運が高まりました。萩藩はこれに応じて土塁の築造を命じ、めったに外に出ることのなかった武士の妻や奥女中までが作業に参加したことから、通称「女台場(おなごだいば)」と呼ばれています。山口県を代表する民謡「男なら」はこのときの作業唄として歌われたものです。
山口県萩市今魚店町102-1

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24. 久坂玄瑞誕生地

 久坂玄瑞は、天保11年(1840)、萩藩医・久坂良迪の3男として生まれました。17歳のときに松下村塾で学び、後に藩校明倫館に学びます。吉田松陰から「防長年少第一流の才気ある男」と絶賛された玄瑞は、18歳のときに松陰の妹・文と結婚しました。長井雅楽(ながいうた)の提唱した航海遠略策に反対し、藩論を尊攘討幕に一変。元治元年(1864)の禁門の変(蛤御門の変)で幕府軍と戦い、流弾を受け負傷。享年25歳で自刃しました。
山口県萩市平安古町537-2

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25. 萩往還/重要伝統的建造物群保存地区(萩市佐々並市)

 萩往還(はぎおうかん)は、慶長9年(1604)萩城築城後、参勤交代での「御成道(おなりみち)」として開かれました。日本海側の萩(萩市)と瀬戸内海側の三田尻港(防府市)をほぼ直線で結ぶ全長およそ53kmの街道です。萩往還の中間点に位置する佐々並市(ささなみし)は、参勤交替の際などに藩主が休息する御茶屋を中心とした、宿駅機能を有する集落として栄えました。佐々並豆腐は、伊藤博文のお気に入りでした。
山口県萩市佐々並ほか

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見どころ(名所旧跡等)

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1. 萩博物館

 建物外観は、かつてこの地区内(萩城三の丸)にあった規模の大きい武家屋敷の特徴にならっています。吉田松陰、高杉晋作をはじめ幕末維新関連の実物資料を展示のほか、模型や映像などで紹介しています。
山口県萩市大字堀内355

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2. 萩・世界遺産ビジターセンター 学び舎(まなびーや)

 世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の中で近代化の原点とされる萩の5資産の位置づけや、吉田松陰がわが国の工学教育に果たした役割などを、映像や講義風景を再現したアニメーションなどで紹介しています。
山口県萩市江向602

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3. 重要伝統的建造物群保存地区(萩市堀内地区)

 旧萩城三の丸にあたり、近世城下町の武家屋敷としての地割が今もよく残り、10数棟の武家屋敷が残るほか、伝統的建造物に特定された土塀や石垣は約450件を数え、地区面積は約55.0haに及んでいます。
山口県萩市大字堀内

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4. 重要伝統的建造物群保存地区(萩市平安古地区)

 旧萩城外堀の南に位置しています。重臣の多くは三の丸に居住しましたが、開墾が進むと多くの武士が屋敷地を構えました。現在も武家屋敷の長屋門、土蔵などが、鍵曲(かいまがり)を構成する土塀とともに残っています。
山口県萩市大字平安古町

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5. 重要伝統的建造物群保存地区(萩市浜崎)

 萩藩の経済を支える港町として栄えた地区で、江戸時代から昭和初期に建てられた町家が数多く残り、伝統的建造物に特定された町家や土蔵などは138棟を数え、地区面積は約10.3haに及んでいます。
山口県萩市大字浜崎町

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6. 藍場川地区

 鯉が泳ぐ藍場(あいば)川の周辺の風情は萩の中でも印象の深いところです。ハトバと呼ばれる洗い場など城下町の生活の情緒を伝え残しています。最上流にある湯川家屋敷は建物内が有料公開されています。
山口県萩市大字川島ほか

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7. 笠山・明神池地区

 笠山は、山頂に直径30mの噴火口を持つ小さな火山です。山頂展望台からは、日本海の島々の美しい景色が楽しめます。また、約20種類の海水魚が生息する“明神池(みょうじんいけ)”や天然のクーラーと呼ばれる“風穴”、10haの広さに約25000本のヤブツバキが自生する“笠山椿群生林(かさやまつばきぐんせいりん)”などがあります。
山口県萩市大字椿東

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8. 萩・明倫学舎

 全国屈指の規模を誇った,萩藩校明倫館。その跡地に建ち,今日まで授業が行われていた旧明倫小学校校舎が「萩・明倫学舎」として平成29年3月4日オープンします。
 本館には萩藩校明倫館展示室やジオパークビジターセンター,2号館には世界遺産ビジターセンターや,幕末の科学技術史に関する貴重な実物資料を紹介する「幕末ミュージアム」等を開設し,萩の新たな観光起点となる施設です。
山口県萩市江向602番地

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特産品

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萩焼

 古くから茶人に珍重されてきた萩焼(はぎやき)はやわらかで素朴な風合いがあり、同時に気品と風格も漂います。萩の散策の際は、窯元やギャラリーなどで、萩焼の深い味わいをじっくりと感じてください。

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夏みかん加工品

 維新後、録を失った士族救済のため広まった萩の夏みかん栽培。夏みかんを利用した菓子やジュース、マーマレードのほか、夏みかんの果実や花をデザインした夏みかんグッズなども萩のお土産として人気です。

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焼抜蒲鉾

 焼抜蒲鉾(やきぬきかまぼこ)は、萩の九郎兵衛なる人物が獲れたての魚のすり身を蒲の茎にぬって焼きあげ、藩主へ献上したのが始まりといわれています。素材の旨みが凝縮され、ぷりっとした食感が萩の味として人気です。